2011年1月18日火曜日

私とメディアの共存

変わる意識
 著者は、最近メディアに対する疑問と不信感を持っている。それは、果たしてメディアは中立的な立場にいるのだろうか、ということである。昨今の政治や芸能バッシング、特に政権交代や尖閣問題といった報道のされ方に対してである。著者が思うことが正しいとは、全くもって主張するわけではないが、どのようにメディアと付き合っていくかという疑問は尽きなかった。
 そうしたモヤモヤとした気持ちの中で迎えた2010年11月30日。雑誌「ソトコト」の編集者としてメディアの最前線で働くスティーブ氏の講義を聞く機会に恵まれた。その中で氏が話されたメディアのあり方や氏のポリシーに、著者は非常に感銘を受けた。そして、著者の疑問であったメディアとの付き合い方にひとつの解法を与えてくれた。


メディアの力
 日本新聞協会の2009年の発表によると、各メディアに対して「情報が信頼できる」と評価した割合は、新聞が39.5%、テレビが10.1%(民放)、43.3%(NHK)、ラジオが8.7%、雑誌が3.1%、インターネットが5.3%となっている。一時期の80%を下回る形ではあるが、新聞では3割強、テレビではNHKで4割の人が信頼できると評価している。また「社会に対する影響力がある」という評価では、新聞が52.8%、テレビが53.8%(民放)、51.5%(NHK)、ラジオが15.8%、雑誌が18.2%、インターネットが36.5%となっている。それぞれが、「信用する」という評価を上回る結果となっている。ここから、その信用度に関わらずメディアが持つ影響力の強さが分かる。
 こうした状況において、スティーブ氏はメディアの影響力の強さとして「注目するところでイメージが変わってしまう」ということを指摘した。これは非常に危ういことである。例えば、著者が尊敬する人物に麻生太郎元首相があるが、彼は「漢字も読めないお坊ちゃん」というイメージが強いが、リーマンショック時でのG20での功績や中東に対する平和と繁栄の回廊構想などは一般的に知られていない。また「椿事件」や「松本サリン事件」など、印象操作ともとられかねない事件も起きてしまう。
 こうしたことから、メディアが紹介する情報の信頼性に関わらず影響力があるということは非常に危うい状況にあるといえる。ナチスの政治家でプロパンダの天才といわれたパウル・ヨーゼフ・ゲッペルスの言葉に「嘘も100回言えば本当になる」というものがあるが、この通りになってしまう可能性をメディアが孕んでいることを忘れてはならないだろう。


言語の壁を越える
 このような問題を超えていくには、情報の吟味という作業が必要になろう。そのために、複数のメディアに触れることが望ましい。そして、特に、考え方の異なる海外メディアと比較するのがよいと思われる。
しかし、スティーブ氏は、日本がメディアのグローバル化についていく際に妨げとなっていることに言語の問題を挙げた。現在、テレビや紙媒体に加えて大きな領域を持っているのがインターネットである。総務省の発表によると日本における普及率は、平成10年に13.4%であったのに対し、平成21年には78%まで上昇している。インターネットの利便性は、テレビ以上の伝達の速さと世界中まで広がる領域の広大さである。これによりインターネットは、すさまじい情報量を有している。
 ここでスティーブ氏は、自身の経験からインターネットには言語の壁が存在することを指摘する。確かに、著者も外国語のサイトはほとんど見ない。このように窓が開かれていても、その外に出なければ、せっかくの膨大な情報量も意味をなさない。結果として国内だけに目を向けることになってしまい、狭い情報しか得ることが出来ない。
 それを表していることが、「シーシェパード」の例であろう。日本国内においては「テロリスト」と呼ばれる彼らだが、海外では「生物保護団体」として認められている。確かに日本の報道を見ていると、「調査捕鯨の妨害」「薬品やロープを使った暴力的行為」などと、とても保護団体とは思えない報道をしている。これは、海外での報道とは異なる部分が多い。日本の報道が嘘をついているとはいえないが、こうした情報の齟齬があることは事実であり、われわれ一般人がその齟齬を解消するために海外メディアの報道を参照したり素直に受け止めていたりする印象は受けない。
 海外メディアに触れるためには、まず言語の壁を越えなくてはならない。各海外メディアも日本語のサイトを開設しているが、この問題は、われわれ一人ひとりが感心を持ち、多少の時間と労力を用いて、積極的に触れていくことが大切になってくるだろう。


メディアの中立性
 影響力を大きく有する新聞やテレビといったメディアと、今後どのように付き合っていくべきであろうか。今までは発信者と受信者が明確に分かれていた。しかし、インターネットの普及により、その枠は曖昧になっている。いまでは、誰もが発信者になれ受信者になれる。ともすると、情報化社会、情報飽和状態などと風刺されるように広大な情報の海の中を自分自身の判断によって進んでいかなくてはならない。影響力はあっても信頼しきることが出来ないと評価を下したならばなおさらである。国内だけでなく海外のメディアや、またインターネットという真偽を確かめにくいメディアとも付き合っていかなくてはならず、その間で葛藤し吟味しなくてはならない。一部では「新聞やテレビは信じてはいけない」という声も聞かれる。いよいよもって「メディアの中立性」が問われる時代であろう。
 しかし、スティーブ氏は「中立的メディアはない」と指摘する。これは非常に驚くべき指摘である。極端な捉え方をすれば、すべてが偏ったメディアであるとなってしまう。もはや何を信じるべきか分からなくなる。そこで、スティーブ氏は次のような解決法を提示した。「自分の中に中立点をつくる。そしてそれは教育によってなされるべきである。」これは重要な指摘であると思う。確かに各国でメディアリテラシーの教育が進められている。そのシステム化や現場での問題など「教育」によって果たして理想どおりの結果が得られるか著者は疑問に感じるところではあるが、その効果に関わらず、個人がメディアに対して興味を持つということは重要であろう。そのために「メディアは”Lead”ではなく”Follow”として機能すべきである」とも、スティーブ氏は指摘する。補助装置としてメディアをいかに活用していくかがわれわれに課せられた問題である。
 外国語を勉強する。ひとつの事象を複数のメディアで比較する。周囲の人と意見を交わす。そうした地道な努力が、混合玉石の情報で溢れかえる社会に対して共存していく確実な方法であると著者は思う。



伊藤達哉

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